「インド独立の父」マハトマ・ガンディーの生い立ちと生涯! わたなべ(インドインターン日記 vol.110)

カテゴリー:インターン生日記 / インドあれこれ

 

みなさんこんにちは、ゆーきゃんです。

 

最近睡眠時間がかなり長いうえに一昨日くらいからなぜか全身の関節が痛く、そろそろ歳かな…と思っています(笑)

 

 

 

 

そんなことはさておき、先日10月2日は、マハトマ・ガンディーの誕生日でした。

 

今年でなんと生誕150周年だったそうです。めでたい!

 

ガンディーは「インド独立の父」とも称される人物で、日本でも知らない人はいないくらいの有名人ですよね。

 

でも、「歴史の授業で習ったけど、名前と非暴力・不服従くらいしか知ってることがない…」なんて人も実は多いのではないでしょうか?

 

ということで、今回のブログではガンディーとは何者なのか、生涯でどんなことをした人なのかを紹介したいと思います!

 

(写真は、記載がない限りWikipediaよりお借りしました。)

 

 

 

 

ガンディーの生い立ち

 

現在はマハトマ・ガンディーという名前で知られていますが、実は彼の本名はモハンダス・カラムチャンド・ガンディーです。

 

「マハトマ」とは「偉大なる魂」という意味で、ガンディーの尊称なんだそうです。

 

 

 

彼は1869年の10月2日に、現在のインドグジャラート州ポールバンダルに生まれました。

 

今では偉人として称えられているガンディーですが、実は幼少期は素行が悪かったんだとか。

 

彼の残した功績を知る我々からすると、とっても意外ですよね!

 

 

 

そんなガンディーは18歳のときにイギリスのロンドンに留学。弁護士になるためにロースクールに入学しました。

 

弁護士資格を獲得した後、彼はインドへ帰国し弁護士業を始めましたが、インドではあまりうまくいきませんでした…。

 

そこでガンディーは当時イギリス領であった南アフリカに渡り、弁護士として20年ほど働くことになるのです。

 

これが彼にとっての転機でした。

 

 

 

 

 

南アフリカでの経験

 

南アフリカに渡ったガンディーが目の当たりにすることになったのは、インド系移民に対する人種差別でした。

 

彼自身も屈辱的な扱いを受けることになります。

 

有名なエピソードとして、鉄道の一等車への乗車を拒否され荷物ごと放り出され、さらには暴力まで振るわれたという話があります。

 

 

 

このような経験から、ガンディーは南アフリカで、権力に屈せず暴力に頼ることのない、「サティヤーグラハ」と呼ばれる非暴力抵抗運動を開始していくことになりました。

 

インド人に対する差別的な法令を政府が可決したことに対する反対運動として展開されたこの運動は、1914年に同法令の撤廃が可決されたことで終焉を迎えます。

 

つまり、ガンディーが主導した運動により人々は自由を勝ち取ったわけですね!

 

 

 

 

 

インドでの活動

 

その後ガンディーは南アフリカを離れ、1915年にインドに帰国しました。

 

そして1919年にインド植民地政府が「ローラット法」(逮捕状がなくても逮捕が可能で、裁判をしなくても投獄が可能な権利をインド総督に認める法律)を制定したことによって、ガンディーは反英運動(非暴力・不服従運動)に身を投じていくことになります。

 

第一次世界大戦後に彼は、インド独立を目指すインド国民会議に加わりました。

 

そこで独立運動を大規模に組織し、イギリスの製造業者や、立法機関・教育機関などに対するボイコット運動を主導しました。

 

有名な「糸車を廻すガンディー」の写真は、イギリス製品の綿製品を着用せず伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけたことにちなんでいます。

 

(出典:Gigazin

 

 

運動が大規模化するにしたがって暴力事件が散発したため、1922年にガンディーは抵抗運動の停止を宣言しますが、その後も彼は活動のために何度も投獄され、時には何年も拘束されることになります。

 

 

 

 

 

運動の再開

 

1930年には、植民地政府による塩税がインドの人々に悪影響を及ぼしているとして、塩税に対する不服従運動を展開し、活動を再開していきます。

 

なかでも「塩の行進」は有名ですよね!

 

 

 

 

そんななか1931年にイギリス側が歩み寄りを見せたため、ガンディーはロンドンで開催された第2回英印円卓会議にインド国民会議の代表として出席します。

 

その際ガンディーはインドの統一国家としての完全独立を主張しますが叶わず、イギリスが提案した分離選挙制度(ヒンドゥー教徒とイスラム教徒にも一定の議席を与えるというもの)を受け入れることになりました。

 

後にこの分離選挙制度は拡大し、不可触民にも一定議席を認めるようになります。

 

それを「不可触民への差別を固定化するものだ」を考えたガンジーは、不可触民を「ハリジャン(神の子)」と呼び、ハンガーストライキを通してカースト制度の撤廃活動を行いました。

 

 

 

 

 

インド独立の達成へ

 

その後第二次世界大戦が勃発すると、スバス・チャンドラ・ボースなどの独立運動家も動きを強めました。

 

1945年にイギリスは戦勝国となりますが、すでに国力は弱っており、インドへの統治力を失っていきます。

 

そんな中ついに、1947年8月15日にジャワハルラール・ネルーが独立を宣言します。英領インド帝国は解体され、インド連邦の独立が認められました。

 

首相と話をするガンディー

 

 

 

しかし、独立はイスラム教国家のパキスタンとの分離独立となり、ガンディーが望んでいた独立とは少し違う形となりました。

 

 

 

インドとパキスタンの分離独立後もガンディーは活動を続け、暴動化したヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を止めようと、断食を繰り返します。

 

そしてガンディーは、ムスリムとの交渉活動に腹を立てたヒンドゥー原理主義者のひとりの手により1948年に暗殺されるまで、両教徒の融和のために尽力したのでした。

 

 

 

 

 

以上が、後世の指導者たちにも多大なる影響を与えたマハトマ・ガンディー生い立ちと生涯になります。

 

こうしてみると、実に様々な功績を残している人物なんですね。

 

またブログでインドの有名人を紹介出来たらなと思います!

 

それでは今回はこのへんで!

 

 

 

 

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