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こんにちは。やぎです。
今日はコルカタに来ています。
というのも、5月6日からマハラシュトラ州にて結婚式に参加するためです。
明日は移動で17時間ほど列車に乗りっぱなしです。
初めての寝台列車でなかなかワクワクしております。
さて今日は、せっかくコルカタにいるということで、コルカタの歴史について触れてみようと思います。
後半では関連する建造物の観光についても触れます。
2011年におけるコルカタの人口は449万7千人。
都市圏人口はインドの中ではデリー、ムンバイに次ぐ第3位です。
※都市圏人口・・・主要都市と主要都市地域近くの郊外都市も含んだ都市圏の人口
では、なぜコルカタはここまで大きく発展したのでしょうか。
それはイギリス、そしてイギリス東インド会社と深く関係しています。
1690年:イギリス東インド会社が現在のコルカタに商館を開設。
1696年:イギリスがコルカタの地の支配権を獲得する。
→この時、ウィリアム要塞が築かれる。(当時の王ウィリアム3世の名から付けられた)
1756年:ムガル帝国により要塞が占領される。
1757年:東インド会社軍がコルカタを奪還。
この時、イギリスとフランスがインドの領地を奪い合っていました。
イギリスはフランスの持つ領地を次々と奪い、インドの支配を確固たるものとしていきました。
当時ベンガル地方は、イギリスが求めていた産物の集散地でした。
と言うのも、当時のベンガル地方は、インドの中で並ぶものの無い、良質で高級な綿布の産地として知られていたのです。
その綿布製品などのベンガル産品による利益を見込んで、東インド会社は活発なベンガル進出を展開しました。
そのため1700年半ばには、イギリス東インド会社全体の75%がベンガル地方で占めるようになっていました。
中でも商館のあるコルカタは貿易の中心となっていったんですね。
そもそもイギリスは香辛料などの貿易を目的としていました。
しかし徴税権の取得などによってインドの行政機関の役割も果たすようになりました。
1773年、イギリス首相フレデリック・ノースがインド規制法を成立させ、新設されたベンガル総督が東インド会社のすべての土地を運営することとなったため、コルカタはベンガル地方のみならず英領インド全体の政治的中心となりました。
つまり、現在のコルカタの発展は、1600年代後半からの東インド会社の発展によるものと言えそうですね。
そんなコルカタの街には、当時のイギリス支配が感じられる建造物が沢山あります!
ここでは代表的なものを紹介しますね。
①ビクトリア記念堂・公園
コルカタといったらやはりここが有名ですね。
ビクトリア記念堂は1921年にタージ・マハルをモデルとして建造されました。
また当時インド皇帝を兼ねていたビクトリア女王に因み、このように命名されました。
現在堂内では、インドのイギリス統治時代の資料や武器、絵画が展示されています。
私も3回ほど行きました(笑)
時期によってはハウラー橋の特別展示やコルカタの街形成の歴史の展示がされている時もあります。
記念堂に入るためには(公園含む)外国人は500ルピー(800円ほど)かかります。
実は記念堂を囲む公園もすばらしいです!
公園だけの入園料は確か20ルピーほど(32円ほど)だったと思います、、。(うろ覚えです)
②セントポール大聖堂
ビクトリア記念堂のすぐ近くにあります。
インド・ゴシック様式の建築物で、インド最古の聖堂と言われています。
実は最近、この大聖堂を設計した方の棺桶が建造物の中で見つかったとか、、。
インドの新聞に大きく取り上げられていました!
時間によってはピアノの演奏が聴けたりもするので、ぜひ旅行の際は調べて行ってみてください!
入館料は無料です。ただ、写真撮影は禁止ですので気をつけてください!
ビクトリア記念堂、セントポール大聖堂、どちらもタクシーで行くのがオススメです。
またこの二つを順に観光する際は、横断歩道に気をつけてください!
信号はありますが、交通量もスピードもすごいので横断する際は周りのインド人について行くなど、注意を払ったほうがいいです。
以上、コルカタの歴史とそれにまつわる有名な建造物でした!
他にもコルカタにはヒンドゥー教寺院やモスク、大きなショッピングモールなど、宗教・文化そして時代の流れを感じることのできる施設が沢山あります。
旅行の際は、コルカタの様々な場所に足を運んでみるのもいいのではないでしょうか。