日本にもゆかりのあるインドの偉人!スバス・チャンドラ・ボースの生涯! わたなべ(インドインターン日記 vol.129)

カテゴリー:インターン生日記 / インドあれこれ

 

みなさんこんにちは、ゆーきゃんです。

 

今日からまた新たなコロニーでのリサーチが始まりました!

 

インドも、夜は半袖でいると寒いくらいに気温が落ちるようになりました。

 

日本にもインドにも冬がやってきますね。

 

 

突然ですが、みなさんは「スバス・チャンドラ・ボース」という人物を知っていますか?

 

インド建国の父と呼ばれるガンジーや初代首相のネルーはとても有名ですが、実は彼も生涯をインド独立のために捧げた人物です。

 

コルカタにある空港の名前は「ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港」、

彼の名前を冠しています。

 

そして彼は、日本にゆかりのある人物でもあります。

 

今回のブログではそんな「スバス・チャンドラ・ボース」の生涯について簡単に紹介していきます!

 

アイキャッチ画像は、以下のサイトからお借りしたものです。

https://www.culturalindia.net/leaders/netaji-subhash-chandra.html

 

生い立ち

 

ボースは、1897年に現在のオリッサ州カタックで生まれました。

 

弁護士である父親のもとに生まれ、比較的裕福な家庭で育った彼は、カルカッタ大学の名門カレッジで勉学に励みます。

 

さらにその後、イギリスのケンブリッジ大学にも留学をしました。

 

そこで彼は、常に圧力を受けるカルカッタの大学と違い、ケンブリッジ大学の自由な雰囲気を体感します。

 

この体験から、自由のためにはインドの植民地支配からの独立が必要であると意識するようになりました。

 

1920年7月に受けたインド高等文官試験に4番の成績で合格を果たしましたが、そのまま高等文官としてイギリス植民地統治のために働くことを良しとせず、辞退します。

 

そしてここから、インド独立運動に身を投じていくこととなるのです。

 

ボース、インドへ戻る

 

ボースは1921年にイギリスからインドへと戻りますが、ちょうどこの頃、ガンディーらの下でインド独立運動が活発化していました。

 

そして彼も、ガンディーが掲げる非暴力・不服従運動であるサティヤーグラハ運動に参加していきます。

 

彼は活動の中で何度も逮捕されますが、急進派として知られるようになり、インド国民会議派の主要な活動家になっていきました。

 

しかし、非暴力主義を説く穏健派のガンディーと、即時インド独立をめざす急進派のボースとの間には溝が生まれ、次第に対立するようになります。

 

そして、1939年の国民会議派議選挙において、ガンディー・ネルーらがボース不信任に廻ったことから、両者の対立は決定的になりました。

 

その後は、ガンディーとネルーらは国内から、ボースは国外からインド独立を目指します。

 

第二次世界大戦勃発

 

第二次世界大戦が勃発したことを知ったボースは、「イギリスの危機こそ我々の好機である」として、イギリスと敵対関係にある国と協力していくことでインドの独立を勝ち取ろうと動き始めます。

 

その後ボースは反英姿勢を強め、1940年7月には大衆デモの煽動と治安妨害の容疑でイギリス官憲に逮捕されてしまいました。

 

牢獄でボースは断食を始め、重体に陥りました。

 

監獄内でのボースの死がもたらす全国的反英運動への影響を恐れた政府は、彼に自宅への帰還を許可しましたが、彼はこの間に秘密の会合を開きました。

 

そして、自宅前に立つ監視の眼を潜って、自宅、そしてインドを脱出したのです。

 

元々はソ連に行くつもりであったボースはソ連大使に亡命を願い出ましたが叶わず、ドイツのベルリンへと向かいます。

 

しかしドイツのヒトラーとの交渉はうまくいかず、次に日本へと目を向けることになりました。

 

ボースと日本軍

 

ドイツからの支援の望みは薄いと考えたボースは、日本行きを希望して駐独日本大使館に接触を図ります。

 

当時日本軍はシンガポールを陥落させビルマに迫っており、日本の支配下にあった元イギリス植民地のシンガポールを拠点として、指導者ラース・ビハーリー・ボースのもとでインド独立連盟が設立されていました。

 

さらに、シンガポールや香港で捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍もその指揮下に入っていました。

 

はじめのうちはボースのことをあまり気に留めていなかった日本軍でしたが、、ラース・ビハーリー・ボースの体調が悪化すると日本軍はインド国民軍を指揮する後継者を求めるようになり、そこでボースに目をつけたのです。

 

そして彼は、ドイツ海軍と日本海軍の潜水艦、そして飛行機を使い、1943年に遂に日本に渡ります。

 

ボースは来日に成功しましたが、当時の首相東条英機は彼のことを高く評価していたわけではありませんでした。

 

しかしやっと実現した階段において東条はボースの人柄に魅せられ、インド独立への協力と共にイギリスと戦っていく姿勢を示していきます。

 

そしてボースは、大東亜共栄圏を唱えアジアの開放を旗印にしていた日本の協力を得て、ボース率いるインド国民軍は日本軍との共同作戦を展開、インドに侵攻します(インパール作戦)。

 

この作戦は失敗に終わるものの、ボースは独立をあきらめませんでした。

 

日本の敗戦とボースの死

 

1945年8月15日の日本の敗戦によって、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取るのは不可能となってしまいました。

 

そこでボースは、「敵の敵は味方」という彼の考え方に従い、ソ連に協力を求めようとソ連へ向かいますが、その途中に飛行機事故で亡くなってしまいます。

 

インド独立にその生涯を捧げたボースでしたが、1945年8月18日、その独立を見ずして人生に幕を下ろすこととなってしまったのです。

 

実は、彼の遺骨は東京杉並区にある蓮光寺に眠っています。

 

 

 

以上が彼の生涯になります。どうだったでしょうか?

 

日本にもゆかりのあるインドの偉人、スバス・チャンドラ・ボース。

 

ぜひ、名前とどんなことをした人なのかを覚えておいてくださいね!

 

 

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